内部障害者として生きています(前半)

数日前にnoteで自分の病気と障害について書きました。反響があったので、こちらにも原文そのまま載せます。

長いので前半後半に分けます。

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今書くべきだと思ったので、これを書いてます。

 

みなさんは「障害者」という言葉からどんな人が浮かびますか?

 

車椅子ユーザ、視覚や聴覚に不自由がある人、体の一部がない人もそう。昨今では精神障害に関する理解がやっと進んできました。それでもほんの一歩です。

 

私も障害を持っています。上に挙げたものではなく「内部」に関する障害を。

 

障害について

私の病名は「短腸症候群」といいます。

文字の通り腸が短いです。明確に言えば小腸が。

障害者手帳も交付されて3級です。

 

これは先天的なもので、生まれた瞬間小腸が飛び出た状態だったらしいです。

 

すぐ大きな病院に救急車で運ばれ、外に出て壊死した部分とその付近を切除、全長の半分ちょっとを失いました。

 

ここで小腸の機能をざっと説明します。

 

小腸は食べたものの栄養素を吸収する役割を持ちます。切除した時点では通常の人の半分以下しか吸収できない事が確定されてます。

 

11歳くらいの時にもストレスで十二指腸潰瘍になって、状態確認のために手術で開腹したら小腸がひどく捻れていたらしく、解いて少し切ってまた収められました。

なので今、私の小腸は一般の2割弱しかありません

 

小腸が短いとどうなるか

ここで、小腸が短い生活をするとどんな影響があるか、機能面と実体験で起きたことをざっと書きます。※これは個人差があります。

 

・栄養が吸収されない→疲れやすい、集中力短くなり、常に注意力散漫

・月の7割は下してる状態

・あらゆる面で短気

・頭痛になりやすい。

・月経不順になりやすい。

 

どうやって生きてた?

そんな状態で今までどうやって生きてきたか不思議に思われるでしょう。

 

主に3つの手段で生かされてました。

 

1中心静脈カテーテル

 

これは心臓に繋がる太い血管にカテーテルを入れ、点滴から栄養を取ってました。

とりあえず生き延びるために必要最低限の栄養素をダイレクトに入れてたからかなりのカロリーだったけど、それでもそんなに吸収されなかったと思う。

昼間は管に血液凝固させない薬を入れ、外して過ごしていました。

 

これを維持するには消毒が必須で、40%のアルコールを直接管に入れてました。

当時小学生。これやった後の私はテンション高くケラケラ笑ってた。(私がお酒弱くないのはこれがあったから)

 

2 栄養剤

私は幼児用ミルクや母乳の代わりにこの栄養剤を13歳まで飲んでいました。効果あったかはよくわからないけど、飲み食いするリハビリも兼ねてたかも。

 

 

3胃瘻(いろう)

これは胃に穴を開けて直接ペースト状にした野菜や薬を入れてました。これがわたしのご飯だった。

一般的には衰弱して自力でご飯を食べられなくなかったお年寄り等の最後の処置で取られるものですが、若い人でも病気の関係で一時的に付ける事もあります。

小学2年生から中1までつけてたのかな。外したあとうつ伏せで寝れることが嬉しかったです。

 

でもこれらに欠点は当然あって、1つ目のカテーテルにほぼ命を握られてたと言ってもいいです。

私はこれに救われたし殺されそうになってたから。

 

カテーテルの患部は大きな絆創膏のようなもので貼り付けているだけでした。

だから細心の注意をしてもいつウイルス感染してもおかしくない状態です。だからプールの授業は絶対だめ。なので泳げないし、水に顔を浸せるようになったのも高校生です。

 

その時の記憶は全く無いので省略した形になりますが、このウイルス感染に2〜3度合って死にかけています。

PICU(小児集中治療室)に移動され、主治医の先生がカテーテルを抜くか否かで怒鳴り合ってたそうです。

このカテーテルを抜けば私の生きる全て(栄養接種)を失う(このとき何度か差し替えをしてたから、代替血管が足の付け根しかない。最終手段)

 

結果、抜かれて命は繋がりました。

 

食べないと一生1人になれない

次は食歴。

私と会って食事をした事がある人に、「中学生まで何も食べれなかった」と伝えると「そうは見えない」と言われます。

 

食べることに拒絶反応はあったけど、食べ物や料理そのものに恐怖心が無かったのは両親のおかげ。

私が全く食べれない時でも小さなおわんとお茶碗を出してほんの少しご飯を盛ってくれました。そしてお箸の使い方を教えてくれました。

母曰く、「食べない生活でも最低限お箸の使い方だけは覚えさせようとした」らしいです。

 

幼い時私は食べないのになんでだろー。程度にしか思ってませんでしたが、今となっては食べているので使えるようになってありがたい。

 

食べる訓練は幼稚園の時に一度したことはあります。

病院で食べるリハビリをして、幼稚園に事情を話し給食の代わりにおかゆのお弁当を持っていきました。

名前も顔も忘れたけど男の先生の「食べないとだめだよ」という命令口調に嫌悪感を覚え、食べるもんかと頑なになったのは覚えてる。

 

小学生以降は、たまーに飴を少し舐めたり(舌で触れる程度)、煎餅舐めるくらいしか固形物口にしてなかった。

あと今まで食べてなかったから歯磨き粉も違和感しか無くて、しばらく水で歯磨きしてた。

血液検査でアレルギー検査をしたら小麦、卵、牛乳はアレルギー判定が出てた。(何も食べていないから、拒絶反応だったと思われ)

「食べる行為」をはっきり意識したのは13歳の夏でした。

「俳里ちゃん東京行きたいなら点滴取らないとあかんなぁ。一人暮らしもしたいんでしょ?」と当時の主治医に言われたのがきっかけでした。

 

点滴をし続けるのも可能だけど、実家にずっと依存することになります。ということは、高校や大学の選択肢も狭くなる。当時はインターネット黎明期で、リモートワークなんて聞いたことなんてない。ていう時期。

 

アイドルやネットタレントにハマってた私は「大きくなったら東京行くんだ!」と言いまくっていたので、先生はそれを引き出して私に現状を突きつけました。その時の先生は大阪出身の女の人だったから柔らかい口調で、ハッキリと言ったのを覚えてます。

 

その日から少しずつ食べる練習を始めました。最初は豆腐や茶碗蒸しといった柔らかくお腹の刺激にならないもの。慣れたらはんぺんにマヨネーズやケチャップをかけて「味」に慣れていきました。

 

そして一番の壁である固形物になりました。

 

母はお箸にほんの少し、ご飯をつまみ「まずこの量をゆっくり噛もう」と言いました。それに慣れたら、ピンポン玉くらいの塩おにぎり、卵焼きの切れ端…と少しずつ進めました。

 

ある日の夕飯、食卓に乗ったオムライスを目にした私は「食べたい」と思うようになりました。これが初めての食欲です。

母に食べていいか聞き、「いいよ」と言われたので一口食べました、おいしい。もう一口、もう一口……と食べて完食しました。これが初めて1人分の量を完食した時です。

これ以来私はRPGゲームのように少しずつ食べれるものを解禁していき、今に至ります。

13年間ほぼ食べなかったのに、身長151cmまで伸びたのは凄いと我ながら思う。

 

余談ですが食べれない頃でも、おにぎりのツナマヨとオムライスは絶対に美味しいって信じてました。あと、「口にものを入れながら喋る」という行為に憧れてました。(これはジブリ映画の影響)

ご飯が食べれるようになり、体重も36kgになったのでやっとカテーテルが抜け、胃瘻も取りました。

カテーテルは、がっちり固定してるので手術扱いでしたが、胃瘻はスポッと抜いてでかい絆創膏ペって貼られておしまい。

 

先生「ピアスと同じで、ほっとけば胃も皮膚も穴は塞がるんよ」

うーん、ワイルド!!

 

そこから後の学生生活は疲れやすいのと貧血があるくらいで、入院レベルにはならなかったので割愛。次は家を出てからです。

(全文はリンクより)

https://note.com/speak_low/n/n5cdcfc9cf86e