このやり取り、何回目よ?

私こんな声なんだ。録音データかビデオか、電子媒体を通して触れる自分に躊躇った。

あー、こういう声なのか。うん、許容範囲内だけど…うん…って始めて思ったのが中学か高校か。

幼い頃や5年くらい前ならすんなり聞けるけど、近年の声は身構えてしまう。

昨夜ふと自分の声録音して聞いたら記憶の自分より違う印象に聞こえた。

歌声はその歌を歌ってるお手本が存在して、それに近づけるため高低差を出したり抑揚つけたり、意識して出すものだ。

けどそうではない誰かと話したり独り言で出す自然な声は余計リアルなもので、自分だけど他人のように感じてしまう。その中間にあるのが朗読なんだけど、その話はまた後で。

声を聞く事も自分と対面する手段にあたるから反応に困るんだろう。よくよく考えたら感情の大部分を表現するものね。

作家や偉人も書物より音声データのが価値が高いし、指名手配者の情報提供で映像や音声が使われることもある。だから声も自分の一部だって改めて実感。

作詞作曲歌全工程を自分でするアーティストはどこまでを自分の分身と捉えてるのだろうか。それともトータルで出したら脱皮という扱いなのかな。気になってきた。星野源だったら面白がって真摯に答えてくれそう。源さんは忙しいからおげんママかニセ明に聞いてみよう。