蛇の幸福論、もしくは舌を割った鷹

食後のコーヒーを飲みスプーンについたアイスを舐めながら地上波の電波を眺める。

画面の中には現社に出てくる大文字3文字に略された国際機関みたいな名前のアイドルグループがキラキラした表情を浮かべ流行りのスイーツを食べていた。アイドル業界も多様性を求められる時代。価値観も多様性も手を繋いで「私の僕の選択間違ってないよね」と顔を見合わせないと倒れてしまう生き物。長い長い夜が明け財閥解体の準備が整う。人柱はここだと悲鳴に似た宣戦布告が海岸に轟く。

去年か一昨年にしたつまらなかった通話を思い出す。父が入院のため不在で母一人という珍しいシチュエーション、暇つぶしに掛けてみたら予想を超えるつまらなさだった。内容は忘れたが私自身の事を話して(珍しくきちんと聞いてくれた。退屈だったので話題が欲しかったのだろう)相槌を打つもその焦点が合っていない。そりゃあ生まれた年も育った環境も元の性格も合わないし、だからといって全肯定されたり頓珍漢な解釈や助言をされても腹が立つのでこれくらいが妥当なのだけど。

あの夜が実家の痕跡を抹消するモチベーションの助太刀になった。実家から痕跡を消すのは確定してたけど、期限は定めていなかった。それから帰省する度45Lの指定ゴミ袋を満杯にして塩を振り日が昇る前にごみ集積所へ持っていく習慣を付けた。不燃ごみはまとめて物置に置いてあるのだが父親は捨ててくれたのだろうか?

そして今回の連休で最後の2袋を一杯にして滲む汗を拭った。朝日を避けゴミ捨て場に蛍光色のゴミ袋を置いて軽く蹴りネットを掛けた。コンビニに入ってみる。ホットスナックを最近食べてないと思ったが朝から脂っこいのは流石に答えるので肉まんを選んだ。以前は9月後半から出てくる印象だったが、今年は9月突入と同時に発売開始された。昼間はべらぼうに暑いのに。ちぐはぐになってしまった価値観と気候と時代の中俺たちは最低限の幸福を反芻して死なない程度に生きるしかないのだけど、それすら退屈になる瞬間が必ずある。

朝日に見下されながら頬張る。一口かじったそこから申し訳程度に昇る湯気が愛おしい。肉まんそのものもそうだけど、その瞬間を何度も見たいから私は何度も肉まんを買う。そして店先で頬張る。

捨て忘れたものはないだろうか?病的な潔癖症の人が皮膚がかぶれるまで手を洗い続けるように空っぽになった部屋を前にしても捨てるものを探し続ける。首をなくしたデイダラボッチの気持ちがわかった気がした。自分の手の付けられる範囲は滅したけど、親が保管しているものはバレたら後が面倒なので触れてすらいない。あれさえ燃やせば完璧なのに。だからといって戸籍は金輪際戻しやしないけどね!!

某作家の本を6年くらいかけて集めているけどそろそろ疲れてきた。本人作品に留まらず翻訳本、趣味のレコードに関して語る本、エッセイやアンソロジー、絵本の翻訳………数えだしたらキリがない。

そのおかげでいろんな作家の名前やジャンルを知ることができたけど流石に多すぎる。逃げるにはまだ枷が重いんだ。

「こんなにすぐ物を捨ててもったいないと思わないの?」と叱られていた幼少期。反抗しても主張しても絶対聞く耳持たれないし喧嘩の仕方がわからないからこれでしか抵抗できないんだって言っても「わけわからない」っていうオチでしょ。だから黙っているんだ。

初恋相手の旅人はナップザックと煙草、ハーモニカがあれば十分だと言う。孤独に向かっていると言うより孤独に惹かれたその生き様に惚れて、自分もあの人になりたいと思ったが道程は舗装が間に合っていなくて不揃いの石と枝と全てを悟る土に阻まれている。あと何を手放せば、裏切れば自由になれるの?死ぬまでそれを問いつづけるんだ。